筆者おススメの本⑧ー京焼の名工・青木木米の生涯ー (サントリー美術館「没後190年木米」展も合わせて)

青木木米 レビュー


会期終了してしまいましたが(2023年2月8日(水)~3月26日(日))、サントリー美術館で行われていた「没後190年 木米」展を見に行ってきました。

というのも、タイトルの本(京焼の名工・青木木米の生涯)を以前から読んでおり青木木米(1767~1833)という人に非常に興味があったからです。

時代は江戸時代末頃の京都。
優れた文化人たちが京都に集まっていました。

売茶翁(1675~1763)、高芙蓉(1722~1784)、奥田頴川(1753~1811)、仁阿弥道八(1783~1855)、田能村竹田(1777~1835)などなど

木米の生涯を主軸に文化教養に溢れた上記の方たちとの交流が描かれている本を片手に、サントリー美術館「没後190年 木米」の展示をじっくり一つずつ見てきましたので、そのあたりも盛り込みながらまとめていきたいと思います。

「京焼の名工・青木木米」の生涯について



著者は杉田博明氏
出版は新潮社(新潮選書)
2001年10月25日発行

定価1200円ですが、先ほど見たらそれ以上の価格でしか売られていませんね。。
木米展効果もあるのでしょうか。

青木木米という人をご存じない方も多いかと思いますので、ざっくりプロフィールを。

青木木米(1767~1833)

京都祇園の茶屋「木屋」に生まれ、本名は八十八(やそはち)
木米(もくべい)と名乗る。
字は佐兵衛、九九鱗(くくりん)、古器観、聾米(年を取ってから耳を患ったため)など
子供の頃から高芙蓉(1722~1784)に学び、芸術の才覚を表す。
木村蒹葭堂(1736~1802)の書物から清で書かれた「陶説」を読み、陶工になることを誓い30歳で京都粟田口で工房を開く。
名声を聞き加賀藩前田家に呼ばれ、廃れていた九谷焼の再興に奮闘。(春日山窯)
煎茶器を多く残しているが、白磁、青磁、赤絵、染付など作域は広い。
同時代に生きた多くの文人たちと交流しながら様々な作品を世に残した。
享年67歳

田能村竹田が描いた木米の書画があるのですが(「木米喫茶図」)、飄々とお茶を飲んでいるおじさん、という印象があります。(P179に掲載)

実際この本の中でもよく茶を飲むシーンが出てきます。
宇治茶、美味しいものを飲んでいるのかなぁとか妄想したり。

茶屋「木屋」は妻が切り盛りしており、本の中での木米はなんとなくいつもお金に困っているような状態が描かれています。

実際サントリー美術館「没後190年 木米」でも「今度の作品は頑張ったから、報酬はずんでね」というような書状も見られました。
茶屋はいつの時代もそれほど利益が出ないってことでしょうか。。
それとも青蓮院の御用焼物師は報酬が少なかった…?(勉強不足で詳細分かりません…)

サントリー美術館「没後190年 木米」でも木米と他の付き合いのあった文人たちとの交流の手紙や贈った絵画などが多く見ることができますが、こちらの本の中でも歴史に名を残している方たちとの交流が見られます。

木米とゆかいな仲間たち

サントリー美術館「没後190年 木米」は四つに構成されており、第三章は「第三章:文人・木米と愉快な仲間たち」となっていました。
ゆかいな…って(笑)

と言う訳でこちらもゆかいな仲間たちをいくつか拾ってみたいと思います。

木米が陶工として活躍する時代には売茶翁も亡くなっていましたが、彼の煎茶は木米の時代にも常に息づいていたようです。
ちなみに以前ご紹介した「茶柱倶楽部」という漫画の主人公鈴は売茶翁に憧れている設定です。
▼参照:筆者お勧めの本②ー茶柱倶楽部ー

また、木米が活躍する時代の少し前には円山応挙、長澤芦雪、伊藤若冲、池大雅のような画人たちがいて、その先人たちの足跡を受け継ぐ新しい知識人として、上田秋成、松村月渓(呉春)、頼山陽、田能村竹田などにつながっていきます。

池大雅らと交流のあった高芙蓉から木米は漢詩などを学んでいます。

その後30代になって高芙蓉と交流のあった木村蒹葭堂を訪ねた際に運命の出会いをします。
清で出版されたばかりの朱琰の「陶説」を発見。
※本の中では「古今東西を問わず、陶磁器についての専門書の中で、最初の著述といって過言ではないだろう」とあります。

ここから木米は陶工への道を歩みだします。

木村蒹葭堂からの紹介でのちに京焼の祖と言われる奥田穎川(1753‐1811)に陶芸を学びます。
※サントリー美術館「没後190年 木米」でも奥田穎川の作った作品がいくつか紹介されていました。
呉州赤絵花鳥文手付鉢の朱色が美しくて筆者は好きです。

友人たちとの出会いや共通の友人、中には奥様を亡くして悲しむ姿や、友人本人が亡くなってしまうというエピソードも…。

サントリー美術館「没後190年 木米」に出展されていた安田靫彦の描いた「鴨川夜情」が木米と友人たちの付き合いを美しく表現しているように感じました。

木米と田能村竹田と頼山陽が夕涼みしながら鴨川で酒を飲んでいる図で、この絵では酒になっていますが煎茶を仲間と飲んでいる姿も想像できます。(静岡市美術館収蔵)
▼参考:静岡市美術館ブログ

木米と煎茶

最初の方でも書きましたが、彼らと木米を繋ぐのは売茶翁の残した煎茶であるとも言えます。

サントリー美術館「没後190年 木米」には当然木米の作っている煎茶器や涼炉などがたくさん並んでおり、陶工であり茶を愛する人であったことが伝わってきます。
木米涼炉
涼炉(湯を沸かす道具)に関しては、写真スポットにもなっていた上記の写真もすごいのですが、「紫霞風炉」という全体が揺らめく炎に包まれているような窯変のものがとても素敵でした。

他の作品もいくつか写真で見ることができますので以下リンクを貼っておきます。
▼参考:美術手帳 江戸時代の「文人」とは何者だったのか。サントリー美術館で「没後190年 木米」が開幕
▼参考:美術展ナビ 【レビュー】「没後190年 木米」サントリー美術館で3月26日まで 個性あふれる多彩な文人の魅力を堪能する

SNSなどを見ていると、「小さな急須に細かい文字がいっぱい書かれていてすごい!」というような感想も多く見られました。

確かに巨大な急須に見えます…!

茶と茶器をとても愛して、中国の技術や形などを取り入れつつ新しいものを作り上げていったとても勉強熱心な方に思えますし、ところどころに垣間見えるユーモアには愛嬌があります。
同じお茶好きとしてはとても好感を持ってしまいます。(一方的な愛)

本の中にこのようなくだりがあります。

木米は竹田との再会の日のために、六月九日に窯出ししたばかりの急須と染付の「盧同煎茶碗」を準備し、この茶碗を収めた茶筒には「奉贈手製茶碗七枚 竹田先生当 五十七老陶工八十八」と記して待った。
その願いがいま叶ったのである。手に茶筒を提げ、選び抜いた白折茶を用意し、「木屋」から東へ祇園社の境内を横切って、双林寺に出かけた。

ウキウキしながら自分で作った急須を持って、親友と会うのを楽しみにしている姿を想像するだけで愛おしい…!
サントリー美術館「没後190年 木米」でもこの書状があり「白折」という言葉を見て興奮していたのは筆者だけではないはず…!

結び



こちらの本には木米の生涯や周囲の文化人たちとの交流が生き生きと描かれています。

また、幕末から明治という動乱の時代がやってくる前の散りゆく花のような美しさがこの時代にはあったように感じます。

「青木木米」という人物について、茶に興味がある方もそれほどご存じないようですし、是非一度「京焼の名工・青木木米の生涯」をお読みいただくと良いかと思います。

筆者は日本史を受験時から専攻していたにも関わらず、江戸後期の文化人たちは全くもって覚えられず。。
なぜなら名前が中国風で難しいから。(笑)

ですが、茶を介すると途端に好きになるのです。(現金)

筆者ももっと勉強していきたいと思っております。

サントリー美術館「没後190年 木米」が終わる前にブログを書きたかったのですが…。
木米の作品は個人蔵のものが多いようで、これほど多くの作品を一堂に会して見られることも非常に稀のようでした。
本当に美術館って素晴らしい。。

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