筆者おススメの本⑦ー紅茶と日本茶‐茶産業の日英比較と歴史的背景‐ー

紅茶と日本茶 レビュー


こちらのブログを書くのがあまりにも久しぶり過ぎて、書き方を忘れております。。

更新できずにいた間、主に海外の方から「このブログは最高だ」「○○の記事がとてもよかった」「とても勉強になっている」「次の更新はいつか」というようなありがたいメッセージを多くいただいていました。
ただ同時に迷惑メールも激増中でして、どうしましょ。(;^_^A

この場を借りて御礼申し上げます。
投稿は不規則かつ少な目ですが懲りずにお読みいただければ幸いです。

久しぶりの投稿は本のレビューになります。

専門かつ発行数も少なそうだけど!「紅茶と日本史‐茶産業の日英比較と歴史的背景‐」の概要



筆者は数年前に某オークションで発見して即買いしました。

今では蛍光ペンであちこち線を引き、汚くなってますが大事な本です。

筆者は相松義男氏
大正9年静岡県生まれ。
小樽高商卒業後、三井物産に入社。
日本茶輸出組合参与、全日本紅茶振興会常務理事、産業構造審議会専門委員などの要職を兼務し、日本茶業振興に寄与。

こちらの「紅茶と日本史‐茶産業の日英比較と歴史的背景‐」は昭和60年に出版されています。
消費税の記載とバーコードがない本って今や貴重ですね。

第一部は「イギリス紅茶産業の発展」、二部は「国際市場における紅茶と日本茶」となっています。

相松氏が三井物産で勤めていたところから、和紅茶(国産紅茶)の輸出について詳しく書かれています。

以下、筆者がこの本から特に学びを得たところをご紹介したいと思います。

「三井」と「紅茶」の長い歴史と強い絆

上述しましたが、本の筆者の相松氏は三井物産に在籍していたことから「三井」と「紅茶」との歴史や輸出などについて詳述されています。

元々近江琵琶湖近くの武家だった三井家は、戦乱の世で伊勢の松坂に逃れ、のちに刀を捨てて1615年に造り酒屋兼質屋を開店します。

「越後殿の質屋」と言う名で地元に愛され、少しずつ規模を拡大、江戸に呉服屋を開店します。

この越後屋呉服店が三越デパートとなり、この儲けを資本として為替問屋三井組、この三井組を中核として明治時代になると三井銀行、三井物産、三井鉱山が設立され、1909年(明治42年)に持株会社の三井合名会社となり、戦前の三井コンツェルンを形成していきます。

現在の三井伊勢丹ホールディングスの前身でもある三井物産は実は非常に和紅茶(国産紅茶)と関わりが深いのです。
このあたりは三越伊勢丹ホールディングスの事業内容「三井のあゆみ」を参考にどうぞ。

①紅茶伝習所で作られていた和紅茶(国産紅茶)の輸出を担っていた
②日清戦争後統治した台湾で茶園を開拓した
③オリジナルの和紅茶(国産紅茶)を販売し、今も継続している

①はこの本で初めて知りました。

明治時代に世界で必要とされていたのは緑茶ではなく紅茶でした。
外貨を稼ぐための手段として紅茶製造を推進する明治政府は全国に紅茶伝習所を作ります。

そこで作った和紅茶(国産紅茶)はロンドンに送られ、R・W・アーウィン(三井物産の代理店)で売りさばかれていたそうです。
アメリカの貿易商社ウォルシュ・ホール商会とか、益田孝とかについてもっと掘り下げたいところです。

紅茶伝習所についての簡単な概要は以下ブログを参照ください。
▼参照:日本でも紅茶が作られている?-和紅茶(国産紅茶)の歴史やイベントなどについて-

②③、三井物産は台湾に茶園を作り、紅茶を作っています。
そして1927年(昭和2年)日本初の国産ブランド紅茶「三井紅茶」を発売(のちに「日東紅茶」へ改称)しています。

三井物産が台北に作った製茶工場は一部火災によってなくなってしまったようですが、現在も稼働中?のようで見学もできるとか。(行ってみたい…!)
▼参考:台北郊外の美しすぎる紅茶工場へ 日本と台湾の意外な歴史を発見

そして、どこよりも早く和紅茶(国産紅茶)に活路を見出し、今もそれを繋げている三井農林。
かなり前の記事ですが以下ご参照ください。
▼参照:三井農林の「お茶科学研究所」の研究がすごい!大発見のキャラクターホイール
▼参照:日東紅茶「ミルクとけだすティーバッグ」を飲んでみた!

少し古いニュースリリーズですが、三井農林の「WN Cold Brew Tea 和紅茶」がANAの国際線ファーストクラスに使用されたりもしています。
▼参照:ANA国際線ファーストクラスに「WN Cold Brew Tea 和紅茶」が採用!

数年前からコンテストの常連にもなっている三井農林の和紅茶。

日本の和紅茶の祖であり、そして現在まで脈々と受け継がれている「三井」と「紅茶」の歴史について知ることができるのがこの本の大きな特徴と言えるでしょう。

激動の和紅茶(国産紅茶)の歴史を読んで感じたこと

1859年に横浜が開港し、緑茶の輸出が急増します。

すぐに増産するため茶園をすぐに作ったとしても(茶木が育ってある程度の収量が見込めるまで)6,7年はかかります。

そこで、限られた栽培面積で生産を増やすために、伝統的な摘採方法(手摘みで一芯二葉摘み)を止めて茶鋏を使い始めたので、硬い葉や木茎が混じり一次加工の段階では形状が不揃いで、かつ、乾燥度も悪く、玉露のようなものを除いて全部が再製工場で仕上げられるようになり(中略)

少しでも摘採効率を上げるために用いられた茶鋏。

茶鋏同様、それまで人の手で作られていた煎茶がどんどん機械化していったのは大量の輸出に適応するためでした。
▼参照:狭山茶と製茶機械発明家 高林謙三展(令和元年7/27~8/4)

確かに手摘みの方が精度は良く、できることなら全部手で摘みたいところではありますがこの時期は人員的にも時間的にも無理なのです。

そのため筆者のところでは可搬型機械(二人用茶摘機)で摘採をしています。(今や平地の農家で収量の多いところは乗用摘採機になっています)

明治の頃も現代も、量を作ろうとするとどうしても綻びが生じて粗悪品が出てきてしまう訳でして、時代を超えても茶農家は同じことで悩まされている気さえします。。
▼参照:日本のお茶刈り(摘採)について‐手摘み?ハサミ?機械?なんのこと?

茶の芽の状態というのは刻一刻と変わり適期を逃すと質がぐんと落ちます。
おまけにその適期はもっても数日。

やはり人口が多く、人件費が安い国には勝ち目がないのかも…。

と従来も言われてきましたが、今や日本の紅茶は世界トップレベルにもなってきていると言われています。

実際に多くの茶農家が海外のコンテストで賞を取っているのです。
▼参考:「和紅茶」人気沸く 産地10年で倍増緑茶低迷で…海外品評会 熊本産が頂点
▼参考:鹿児島堀口製茶の紅茶がパリの国際日本茶コンテストでグランプリ受賞

製茶技術の進歩、適した品種など様々な要因はあるかと思いますが、受賞した茶農家らのたゆまぬ努力の賜物だと思います。

始まりの「三井」から日本の紅茶の歴史の流れ(合わせてイギリスを中心とした世界の流れ)がよく分かりますので、ご興味がある方は是非お読みください。
ちょっと高いけど…

結び

和紅茶(国産紅茶)の歴史についてはデータなどと共にしっかりとまとめられている本がないため以前から切望しています。

筆者自身が断片的な本の内容を繋げている状態なのですが、こちらの本は主に「三井」が中心だとしても歴史の流れが網羅されているように感じます。

ただ、最新の和紅茶(国産紅茶)情報についてもう少し加えていただけたらとても良いのですが…。
相松氏はご存命なのかしら。。

ついつい最新の情報や目新しい商品ばかりに目を向けがちですが、歴史を学ぶことはこれから先の未来を予想する力にも繋がるように思います。

茶業は衰退産業と言われ続けているものの、多くの先人たちの学びや教訓を無にしないように、今から先の明るい未来を描いて生きていきたいものです。

他にも積読が溜まっていてですねぇ…。
今年は少しずつ解消してきたいです。(願望)

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