2024/02「四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎」展を見てきました

有楽斎ポスター レビュー

先日サントリー美術館で開催が始まった「四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎」展を見てきました。

織田有楽斎が建てた国宝茶室如庵と少しご縁があり、色々と知りたくて調べています。

しかしながら織田有楽斎についてはまだまだ存じ上げず、そんな中でのこの展覧会。

少々遠いですが、びゅーんと行って参りました。

「四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎」展の概要

■会期:2024年1月31日(水)~3月24日(日)
■開館時間:10:00~18:00(金・土は10:00~20:00)※例外あり
■休館日:火曜日
■入館料:一般→当日 ¥1,600 前売 ¥1,400/大学・高校生→当日 ¥1,000 前売 ¥800
■主催:サントリー美術館、正伝永源院、読売新聞社
■協賛:三井不動産、サントリーホールディングス
■特別協力:織田有楽斎四百年遠忌実行委員会、株式会社エリジオン、NTTコミュニケーションズ株式会社、ソニーマーケティング株式会社

サントリー美術館はこちら☟

織田有楽斎とは

有楽町
織田有楽斎こと織田長益は織田信長の13歳年下の弟です。

武将ですが、天正10年(1582)に起きた本能寺の変の際に長益の主君が二条御所にて自害したにも関わらず、御所を脱出。
京の人々からは「逃げた男」と言われました。

信長の次男信雄に仕えたのち、豊臣秀吉の御伽衆となり豊臣家を支えましたが、大坂夏の陣の前には徳川家康側へ。

2021年に400年遠忌を迎えた織田有楽斎の生き様について、改めて考えなおす特別展となっています。

ちなみに、有楽町という地名の由来は織田有楽斎にあります。

「有楽町」の名前は、戦国時代に活躍した武将、織田信長の弟、織田有楽斎(おだうらくさい)(長益(ながます))に由来します。茶人としても名をはせた有楽斎は関ヶ原の戦いのあと、徳川家康方に属し、数寄屋橋(すきやばし)御門の周辺に屋敷を拝領しました。その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから、明治時代に「有楽町」と名付けられたのです。▼引用:千代田区HP

「四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎」の構成

第1章 織田長益の活躍と逸話―“逃げた男”と呼んだのは誰か
第2章 有楽斎の交友関係
第3章 数寄者としての有楽斎
第4章 正伝永源院の寺宝
第5章 織田有楽斎と正伝永源院―いま、そしてこれから―

サントリー美術館は以前青木木米展でお邪魔しているのですが、興味のない人でも引き込まれる構成になっていると感じます。

筆者は美術館も博物館も全く詳しくないので余計なことは言えませんが、素人目線で見ていても織田有楽斎という人物がじわじわと浮かび上がるような魅せ方をしていると感じました。

第1章 織田長益の活躍と逸話―“逃げた男”と呼んだのは誰か

いくつかの書物が並べられています。

例えば有楽斎の4男織田長清が系譜を書いています。
ここには清和源氏の末流であると記されています。
これは自分の祖先が由緒ある人物であることをアピールするためのあるあるらしいですね。

また、織田有楽斎が書面上に現れる箇所、そして有楽斎のことを「逃げた男」と評している「義残残覚」を注釈と共に見せてくれます。
義残残覚(ぎざんこうかく)とは

義残後覚(ぎざんこうかく)は、16世紀末に成立したとされる世間話集。全7巻85話の話がまとめられている。編者は愚軒。▼引用:Wikipedia

こちらは江戸時代後期の写本ではないかとのこと。
本当??という疑問が残りますね。

第2章 有楽斎の交友関係

織田有楽斎友達
ここでは有楽斎が様々な人たちの交流した文などを見ることができます。
筆者はこのあたりでかなりテンション上がりました↑↑

「松平陸奥守書状 織田有楽斎宛」には、京都の宇治茶師尾崎坊が出てきて、松平陸奥守(伊達政宗?)が尾崎坊の後継者に「とびきり良い茶をと有楽様からもお言葉添えください」とお願いしている書状だそうです。

他にも臨済宗の僧から請われて茶室作りに参画し、図面作成と数寄屋工法を伝授するというようなやりとりも。

筆者的にテンション上がったのは古田織部への手紙でした。
「高麗からきた茶入と思って使っていたが、唐物とも言われたので検分して欲しい」というもの。
それだけで「へうげもの」が頭の中をよぎってしまいます。
▼参照:筆者おススメの本⑥ーへうげものー

お茶会の延期の手紙だったり、家康にも信頼されていることが分かる手紙だったり、織田有楽斎が生き生きと蘇ってくるように感じます。(やや妄想あり)

第3章 数寄者としての有楽斎

茶を通じて様々な人との交流があり、現在国宝茶室「如庵」を作った有楽斎は後年茶の湯三昧を過ごします。
有楽斎が生前に集めた茶道具は孫の織田三五郎(長好)が引き継ぎますが、織田三五郎(長好)は早世してしまいます。

織田三五郎(長好)の遺言により形見分けされ、残りは正伝院に寄進。

その多くは散逸してしまったそうですが、一部正伝永源院に残った「有楽好み」の茶道具を見ることが出来ます。

筆者が見てみたかった「如庵」の扁額や、富岡鉄斎による「如庵図」なども見られてさらに興奮。

如庵に関して言えば、「有楽苑築造記―国宝茶室「如庵」移築と堀口捨己」という本がなかなか興味深いです。
現在愛知県犬山市の有楽苑にありますが、そこに行くまで紆余曲折あり、実は3回ほど引っ越しをしているのです。
その辺りのことが丁寧に描かれているので、お勧めです。

また、如庵写しの茶室もあちこちにあるので探してみるのも面白いかもしれません。

竹野紹鴎が作った茶杓「初霜」
有楽井戸と呼ばれる大井戸茶碗利休作とされる象牙の茶杓なども見られて感無量。

第4章 正伝永源院の寺宝

元々「正伝院」と「永源庵」があり、明治の廃仏毀釈によって堂宇のみを残して無住となっていた永源庵に正伝院が移って永源庵が廃寺となります。
その際「永源」の名を残すことが希望され、寺名は正伝永源院に。

こちらでは狩野山楽の襖絵、墨蹟などを見ることができます。

「蓮鷺図襖」は本当に美しいです。
咲く前の蓮から散り落ちる蓮までを十六面で表現しており、諸行無常を感じます。

第5章 織田有楽斎と正伝永源院―いま、そしてこれから―

正伝永源院と改まってからの寺宝を中心に見ることができます。

ここで筆者が感動したのは織田有楽斎が茶の師匠としていた竹野紹鴎の供養塔の拓本や如庵と書院を立体的にみられる3D展示がありました。
3D展示ももちろん覗いてみましたが、前の方が見ているのを後ろでみていただけで気分が悪くなり挫折…。

結び

ここで展示は終了なのですが、展示室を出ると売店と6階へ促す看板が。

折角なので、と6階に上がり映像を拝見しました。
その中で3名の方の対談がありました。

中のお一人が
「有楽斎は逃げた男と評されているが、それは有楽斎の後にやってくる儒教の教えに基づいた江戸時代の武士道によって歪められたものではないか。
有楽斎が知恵を絞って生きぬく様はそれこそ戦国武将らしい姿である」
と(少々意訳しているかもしれませんが)仰っていました。

例えば「逃げた男」と書かれている義残後覚(ぎざんこうかく)は江戸後期の写本ではないかと言われているそうなので、筆者の勝手な解釈が入ってしまっている可能性は十分に考えられます。

筆者(私)は全くもって歴史のことを知りません。
大河ドラマも面白く見ている方です。

今現在もSNSによって誤った知識や勝手な解釈が溢れかえっています。
我々人類が何かで滅び、その後今のこの世界のことを残ったデータなどで知る生物が現れたとしたら、事実が歪んだまま歴史を繋いでいくのかもしれません。

歴史を学ぶということはとても面白いことだと最近思います。

過去から先の世を予測することもあるのでしょうし、先見の明を持っている人は必ず歴史に詳しいです。

筆者も茶の歴史を自分なりに知っていきたいと思う今日この頃です。なかなか時間ないけど…(白目)
茶の歴史と言えばこちらの本のレビュー記事も参考にどうぞ。

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