「茶の湯の歴史を問い直す」シンポジウムでの内容についてまた少しずつ追加していきたいと思います。
前回はこちら
▼参照:「茶の湯の歴史を問い直す」シンポジウムに参加して①
第2講「戦国大名の儀礼における喫茶の意識」
前回で橋本素子先生がお話した、「戦国期から武家儀礼<御成>のもてなしと<茶の湯>が併存する」ところから、では実際の戦国大名たちは喫茶や茶の湯をどのように位置づけていたのかという話に繋がっていきます。
神奈川県立歴史博物館の梯弘人先生のお話です。
料理を用意したり、会場まで運ぶ給仕をする武家の装束で登壇!
給仕ですらこのようにきちんとした身なりで行っていたので、将軍や招かれた人たちもそれ相応の装束を身にまとっていたことが分かるはず。
つまり、お点前をこの衣装ではできないのでは??
秀吉は「茶の湯」を政治の世界で活用した?
秀吉は確かに北野大茶湯を開いたり、千利休を重用したり、黄金の茶室を作ったりしている。
服属大名へ茶の湯でもてなしたりもしている。
しかし、実は秀吉主催の「御成」では茶は出てこない。
茶の湯を愛していたはずの秀吉ですら「御成」の中には茶が出てこない。(記録上ない)
ではなぜ「御成」に茶を取り入れなかったのか。
秀吉に服属した大名たちはどのように茶の湯を捉えていたのかというところから見ていく。
毛利家の儀礼に見る茶の湯
毛利元就から輝元の代までその時々の儀式の記録が残っている。
丁度茶の湯が生まれ広がっていく時代のため、茶に関わっている儀礼をいくつかピックアップ。
①大内氏による毛利元就へのもてなし
大内義隆とは?
大内 義隆(おおうち よしたか)は、戦国時代の武将、守護大名・戦国大名。周防国の在庁官人・大内氏の第16代当主。
第15代当主・大内義興の嫡男。母は正室の内藤弘矩の娘。周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護を務めた。官位は従二位兵部卿兼大宰大弐兼侍従。義隆の時代には領土的に全盛期を迎えるとともに大内文化が爛熟した。しかし、文治政治に不満を抱いた家臣の陶隆房に謀反を起こされ、義隆と一族は自害した。
▼引用:Wikipedia
毛利氏は大内氏に従っていた時代がある。
■天文18年(1549年)『元就公山口御下向之節饗応次第』
毛利元就が大内氏の城下町である山口に訪問した際のおもてなしをした記録。
喫茶に関する記述らしきものはあるが、茶の湯かどうかの詳細は不明。
ただし、大内氏の屋敷には<茶の湯の座敷>があったとされている。(陶隆房が謀反の密談をしたらしい)
茶室と想像できる座敷の詳細(広さなど)についてはやはり不明
宴席には「茶」という言葉は出てこない。
茶の湯という文化を取り入れた茶室(床の間などを備えた?)だったのかどうかは不明。
②小早川隆景による毛利元就親子へのもてなし
小早川隆景とは?
小早川隆景は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名で、竹原小早川家第14代当主であり、後に沼田小早川家も継いだ人物です。毛利元就の三男で、竹原小早川家を継承し、後に沼田小早川家も継承して両家を統合しました。吉川元春と共に毛利両川として戦国大名毛利氏の発展に尽くし、毛利水軍の指揮官としても活躍していました。豊臣政権下では豊臣秀吉の信任を受け、文禄4年(1595年)に発令された「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条において秀吉に五大老の一人に任じられました。実子はなく、木下家定の五男で豊臣秀吉の養子となっていた羽柴秀俊(小早川秀秋)を養子として迎え、家督を譲っています。
▼引用:BingAIチャットより
毛利の三本の矢の一人なんですね…。歴史弱い人←
■永禄4年(1561年)『毛利元就父子雄高山行向滞留日記』
隆景の作った城に毛利元就と兄の隆元が訪問した際のレセプション記録
現在残っている資料には献立がない。
喫茶関係の記述としては<常ノ御茶湯之間>で講義が行われていたとある。
しかし茶室なのか、どういった間取りなのか等は一切不明。
茶を飲んだという記録はやはりない。
③豊臣(羽柴)氏から毛利輝元へのおもてなし
■天正16年(1588年)『天正記』(『輝元公上洛日記』)
毛利輝元の訪問先ともてなしなどの記録
輝元だけではなく徳川家康や織田信勝、前田利家、小田原北条氏規?なども同時期に京都に呼ばれている。
秀吉が京都聚楽第では公家の装束を身に着けて儀式を行っていたことが分かっている。
写真の先生が着ている装束(武家)ではなく、上記写真のような公家の装束を着て行ったという。
足利将軍の儀礼に基づいて食事や酒宴などが行われているが、こちらもやはり茶の記述はない。
※他の儀礼についても茶は出てこない
装束については多少アレンジが加わっていることは確認できる。
「茶の湯」によるもてなしは行われているが、儀礼と別日になっている。
➡戦国大名にとっては正式な宴席と茶は別扱い
今後も継続して研究を進めていくということで終了
②の結び
あと3講と4講が残っているというのに、もはや疲労。。
戦国大名に詳しくないもので、だれ??となったりして手間取りました。
①での話と今回の②の話はリンクしていますが、御成の中に「茶の湯」の原型はあるものの具体的にどこから切り分けられたのかまでは今のところは分かりません。
そして、「儀礼」☞「茶の湯」☞「茶道」になっていく様が今後先生たちの研究によって明らかになっていくことを想像して非常にワクワクする。
本を読みたいのですが、なかなか読めず…(言い訳)
ひとまずいただいた資料を見ながら復習をし、時間を設けて読破したいと思っています。
梯先生の今回のお話の詳細は以下の本に書かれていますので、ご興味ある方は是非ご購入を。
専門書にしてはかなり安いと思います。
絶版になってしまった専門書は1冊数万円などもざらにありますからね…。(´;ω;`)ウゥゥ
コメント