「茶の湯の歴史を問い直す」シンポジウムに参加して④

茶の湯の歴史を問い直す2 日本茶

ついにラストの④。
あと、やっぱり暑いです。←

前回までの内容はこちら
▼参照:「茶の湯の歴史を問い直す」シンポジウムに参加して①
▼参照:「茶の湯の歴史を問い直す」シンポジウムに参加して②
▼参照:「茶の湯の歴史を問い直す」シンポジウムに参加して③

最後の講演になります。

最近ようやく茶の湯の茶道具に興味が湧いてきた筆者はちょこちょこ某オークションサイトなどを除いたりしています。
買わないけど。買えないけど。

第4講「茶の湯を創った青磁茶碗ー馬蝗袢は本当に東山御物か?ー」

講師は東京国立博物館主任研究員の三笠景子先生。

茶碗の話をする際に必ず出てくる「総じて唐茶椀捨りたるなり」という言葉がある。(山上宗二記)

この記述の後に「今は高麗(朝鮮半島)茶碗や楽(日本)茶碗が人気だ」とある。
※「山上宗二記」が書かれたのは丁度「「茶の湯の歴史を問い直す」シンポジウムに参加して②」で梯弘人先生が話していた秀吉が各地の大名を集めていた時代。

東京国立博物館では昭和55年(1980年)「茶の美術」という展覧会を開いた。

その展覧会では茶の湯の道具を総合的に美術史の遡上に上げた画期的なイベントだったとされている。
企画担当された林屋晴三先生は美意識の変化を「唐物数奇から侘数寄へ」(漢字あってる?)と明快に説明。

今日では足利将軍家の唐物数寄の喫茶から竹野紹鴎を経て、侘茶を極めた最たる人物として千利休へと続くとされている。

茶碗について

唐物茶碗とは?
唐物茶碗と聞くと多くの方は天目茶碗を思い浮かべるのではないか。
しかしそれらは大きく分けて「天目」とくくられていて、唐茶碗とは呼ばれていなかった。

では何が唐茶碗?
平安鎌倉の頃から日本人が多く受け入れてきた青磁のことを指すのではないか。

青磁茶碗といえば??
人形手や珠光青磁というものも青磁と言われる焼き物に入る。

…青磁は主流ではないような気がする。
やっぱり天目ではないか??

その最たるものが馬蝗絆であろう。

青磁茶碗というのは茶会記が記されるようになる頃から茶会で頻繁に用いられている。
天目も高麗茶碗も青磁茶碗も自由な使い方で用いられている。

天正年間、その後も茶会の記録を見ると青磁の茶碗は使用されている。

山上宗二が言っている「総じて唐茶椀捨りたるなり」というのはある一面のみの見方なのでは?
こういった傾向はあったのかも知れないが、青磁茶碗を使っているケースも多々見られる。

侘数寄は千利休だけに象徴させてはいけない
様々な茶人がいて、色々な美意識があったはず

と書かれており、ここがポイントなのではないか。

続きは本を(笑)←先生が実際に仰っていたのです!という訳でリンクをば…

馬蝗袢について

馬こうはん
馬蝗袢は実は茶の湯の席で使われたことがない?謎多き茶碗。

・平重盛(平安時代)所持というのは本当?
・足利義政が中国に送って直したというのは本当?
・馬蝗袢の「蝗」はイナゴのこと。最近はヒルだと言われているがどちらにせよ口をつける茶碗にふさわしい??
・薄くて軽いため湯を注いだ時は熱くて飲めないのでは?

「青磁輪花(りんか)茶碗 銘 馬蝗袢(ばこうはん)」
東京国立博物館所蔵の重要文化財(1970年に寄贈され重要文化財に)。
以下は馬蝗袢の説明書き。

日本に伝えられた青磁茶碗のなかでも、姿、釉色が特に美しいばかりではなく、その伝来にまつわる逸話によって広く知られている作品である。江戸時代の儒学者、伊藤東涯によって享保12年(1727)に著された『馬蝗絆茶甌記』(ばこうはんさおうき)によると、この茶碗は安元初年(1175頃)に平重盛が浙江省杭州の育王山の黄金を喜捨した返礼として仏照禅師から贈られたものであり、その後室町時代に将軍足利義政(在位1449~73)が所持するところとなった。このとき、底にひび割れがあったため、これを中国に送ってこれに代わる茶碗を求めたところ、当時の中国にはこのような優れた青磁茶碗はすでになく、ひび割れを鎹(かすがい)で止めて日本に送り返してきた。あたかも大きな蝗(いなご)のように見える鎹が打たれたことによって、この茶碗の評価は一層高まり、馬蝗絆と名づけられた。
平重盛所持の伝承は、龍泉窯青磁の作風の変遷に照らして史実とは認めがたいものの、足利将軍家以降長く角倉家に伝えられていたことから、伝承には信憑性がある。内側に緞子(どんす)を張った中国製の漆塗りの曲げ物に入れられており、何らかの特別な事由で中国から運ばれた茶碗であることは確実である。▼引用:e国宝

龍泉窯、中国浙江省南部に広がる窯
南宋時代の13世紀に焼かれたもの
高さ6.7センチ、口径15.4センチ、底径4.6センチ、重さ約300g

■伝来
➡平重盛➡足利義政➡吉田宗臨➡角倉家➡室町三井家
三井家当主三井高広氏より国立博物館寄贈(1970年)

■付属品
伊藤東涯筆「馬蝗絆茶甑記(ばこうはんさおうき)」

【補足】鎹(かすがい)とは?
かすがい
鎹(かすがい、英:cramp)とは、金属製で「コ」の字の形状をしており、尖った先端部が2つある釘をいう。
▼引用:Wikipedia

本当に平重盛、足利義政が所持した?

平重盛が所持していたかどうかについては、制作された時代を検証する必要がある。

龍泉窯は500窯跡くらい見つかっており、最盛期は南宋時代13世紀頃と言われる。
綺麗な水色の釉薬。(=粉青色(ふんせいしょく)=江戸時代以降「砧」と呼ばれている)
龍泉窯はこの綺麗な焼き物の量産窯。

龍泉窯の調査や上流階級層の墓によれば、12世紀より遡って砧が作られている例はない。(ほぼない?)
1179年に亡くなっている平重盛が所持している可能性は低い。

足利義政はどうか?
18世紀初頭に書かれた『馬蝗絆茶甌記』。
これ以前に馬蝗絆の伝来について書かれた書は見つかっていない。
つまり、18世紀初頭に初めてこの伝来が生まれた可能性がある。

【補足】吉田宋臨とは?
安土桃山時代の医者。
足利義政のお抱え医師。
吉田宗臨の子孫が京都の豪商角倉了以。

9代当主角倉玄懐(はるかね)が儒学者伊藤東涯に『馬蝗絆茶甌記』を書かせた。
※儒学者伊藤東涯は吉田家の筋で親戚にあたる。

普通茶道具というのは近代に至るまで様々な家を転々とする場合が多いため、角倉家から一度も出ていなかったというのは非常に珍しいケース。

足利義政所持というのは考えられるのか?
永禄6年(1563年)「往古道具値段付(おうこどうぐねだんつき)」の中に馬蝗絆ににた茶碗の記述がある。
しかし、ここには平重盛、足利義政所持という記載はない。
また、ひびが入っている、鎹が打ってあるという記述もない。

この茶碗が角倉家の大事なものであるなら、この由緒(平重盛、足利義政所持)は必ず記載されるべきもの。
それがないということは由緒がついたのは「往古道具値段付(おうこどうぐねだんつき)」が書かれた永禄6年(1563年)以降のものと考えられる。

鎹はどこで打ったのか?

足利義政所が湯を注いだ後ひびが入ったという話になっている。

この鎹での補修は一般的に行われていたもの。

国立博物館にも他に同様の修理が行われている展示物もあり、明や清の景徳鎮などでも行われていた。
また、昭和初期までは鎹での修理を日本でも行われていたと伝わる。

朝倉氏一乗谷遺跡でも青磁の花入を鎹で修理したという形跡があるものが出土している。

つまり、鎹による修理は一般的に日本でも行われていたのでは?
足利義政が修理のため中国に送ったというのはどうなのか??

茶の湯の碗だった?

茶会記にも出てこない。
角倉家の記録にも出てこない。

18世紀に馬蝗絆は突如現れたようにも見える。

『馬蝗絆茶甌記』の段階では茶の湯の碗として認識されていなかったのではないか?

それを裏付ける資料として薩摩藩の絵師木村探元の日記に残されている。
享保20年に角倉邸を訪れ、雪舟の絵や馬蝗絆茶碗を見たとある。

CTで確認をしたところ、茶碗の入っていた箱や緞子などは中国製?のようだ。

続きは本で(笑)

結論

馬蝗絆に限らず伝世品というのは謎が多い。
日本にはトップクラスの青磁碗がある。
花入や香炉なども砧であるものが日本にある。
他の国には残っていない。

足利将軍家の唐物数寄に十把一絡げにしてはいけないのではないかと思っている。

ひとつひとつの作品にそれぞれの歴史があるので、その作品ひとつひとつを正しく理解し、焼き物の歴史や喫茶文化の歴史に位置付けることが必要だと考えている。

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この後質問コーナー、座談会
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結び

茶の湯の歴史(喫茶の歴史)に関しては橋本素子先生のオンライン講座などに時折参加しており、多少認識がありました。

しかし、③、④の考古学の分野や美術史の文化から喫茶の歴史を見ていくというのは目から鱗だったというのが本音です。

文献がなくても、発掘物や現在に残る茶器などをひとつひとつ調べていけば、正しい喫茶文化史が今後確立していくのだろうと、ワクワクしながら聞いていました。

それは途方もないことであることも同時に感じました。

また、どこかにも書きましたが筆者は茶の湯に関わりなく生きてきて、今更ながら少し勉強を始めたところです。
そのため、正直専門書である「茶の湯の歴史を問い直す」を手にしただけでは理解ができません。(なにしろ開くと寝てしまう…)

今回このように耳で聴き、目で見ることによって、先生たちがどういった方向でアプローチをしてそれぞれの専門分野から喫茶文化を見ているのかというところが少しですが理解できたような気がします。

茶の湯の歴史を知らないがゆえに、筆者はこの新しい?喫茶文化史にスムーズに入っていけそうです。(笑)

そういえば、筆者が子供時代に習った歴史では「いい国つくろう鎌倉幕府」でしたし、「蒸しご飯でお祝い」でした。

変わらないもの、と思っていた日本史は生き物だったということにごく最近気づきました。

茶の湯の歴史も喫茶の歴史も今後大きな変化を迎えるのでしょう。

自分の固定観念に捕らわれず、過去も未来も柔軟に考えていきたいものです。

茶の製法も同じなんだよなぁ。。(ぼやき)

最後にうるさいですが、もう一度リンク貼っておきます!

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