狭山茶と製茶機械発明家 高林謙三展(令和元年7/27~8/4)

高林謙三の写真 茶のいろいろ


先日「狭山茶と製茶機械発明家 高林謙三展」へ行ってきました。

高林謙三、をご存知でしょうか?

ご存知だという方はかなり日本茶に詳しいはずです。
筆者は数年前に某インストラクターの勉強をしていた時に初めて知りました。。

現在の日本茶が大量生産ができるようになったのは間違いなく彼の功績です。
展示の写真とともに、高林謙三の歴史や功績を追ってみたいと思います。

高林謙三という人について

高林謙三写真

1832年武蔵国高麗郡平沢村(現在の埼玉県日高市)生まれ。
日本の古医学を学び、医者として開業。

欧米諸国と通商条約を結んだ日本の輸出品は生糸と茶であり、茶の生産量を増やすことが急務だと考えた謙三は川越に土地を買い、開墾して茶園経営を始めます。

しかし、従来の手揉製茶法では一日に作れる茶の量は限られるため、製茶機械の開発に取り組み始め、医者として蓄えた財産を製茶機械開発に投じていきます。

試行錯誤の末に1884年(明治17年)に「焙茶器」が完成。

翌年には「生葉蒸し器」と「製茶摩擦器械」も完成。

特許も取得しましたが、止むことなく次々と新しい機械を世に生み出していきます。
1886年(明治19年)には「茶葉揉捻機」でも特許を取ります。

謙三は「自立軒製茶機械」という、蒸しから乾燥までを一括で行う、つまり製茶機のオートメーション化を目指していました。

その開発のために医者を辞め、命を懸けて取り組みます。
しかし、完成したと思われた「自立軒製茶機械」は失敗に終わります。

その後も諦めずに製茶機の開発を続け、1897年(明治30年)に「茶葉揉乾機」を完成。(現在の粗揉機)

現在の製茶機の基礎を作った人として歴史に名を残します。

謙三の作った製茶機はいまだに「高林式製茶機」と呼ばれています。

▼参考:お茶街道文化会

「狭山茶と製茶機械発明家 高林謙三展」について

★日時:令和元年7月27日(土)~8月4日(日)
★場所:高麗神社 参集殿2階 大広間
★開催時間:9:00~16:00(入場無料)
※トークセッションが7/28、8/4に行われていましたが、筆者は参加できず…

高麗神社
↑こちらが高麗神社

蒸し工程
↑「蒸す」道具の変遷
現在も正式な手揉茶は、丸蒸籠のような「まんとう」というもので生葉を蒸しています。(まだ実際には見たことないのですが…。)

蒸し器昔の
↑茶葉蒸熱機(通称、青葉蒸機)

生葉蒸器械複製
↑生葉蒸器械複製
1884年(明治17年)特許第2号
丸蒸籠より蒸しムラがなく、大量に生葉を蒸すことが出来るとのこと。

粗揉機

粗揉機2

粗揉機説明

こちらの「高林式粗揉機」の中を見ると、今の粗揉機と全く同じであることが分かります。

小さいですが、「旅の思い出2019年5月‐京都府茶業研究所②(製茶機械)‐」にミニチュア製茶機の写真を載せていますので、よろしければ見比べてみてください。

結び

何が彼をこんなにも駆り立てていたのか考えていました。

財を捨て、命を懸けて、死の間際まで製茶機械を作り続けた彼は日本茶のどんな未来を描いていたのでしょうか。
今は彼の思い描いた未来になっているのでしょうか。

実は筆者、製茶機械を先に見るよりも手揉み茶を体験しました。

手揉み茶体験の初回、先生に「この手の動きすべてが今の製茶機械の元になっている」ということを聞き、しばらくしてから実際に製茶機械を見る機会に恵まれました。

手で葉を揉みながら製茶機の動きを想像すると確かに同じで、感動したことを改めて思い出します。

しかも、高林謙三は日本に特許制度が出来てすぐに申請をしているため、特許2号、3号、4号が製茶機械であるという話を聞いて当時の日本茶輸出にかける想いというのは凄かったのだろうと想像が出来ます。

本で名前と功績だけは知っていたものの、実際に謙三の生き様等は知りませんでしたので、今回非常に勉強になりました。

▼手揉み茶の記事はこちら

ちなみに、「色は静岡 香りは宇治よ 味は狭山でとどめさす」とよく聞くフレーズがあります。

狭山茶は火入れが強く、甘いお茶ということなのですが、筆者はまだ「これがとどめをさす狭山茶か!!!」というお茶は実はきちんと飲んだことがありません。

これから探してみたいと思います。
↓こんなお茶???

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